院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


「ジャンヌ・エビュテルヌ」


 うわのそらで聞いた講演が終了すると、昼食を兼ねた懇親会を早々に辞して、私は赤坂のホテルを出た。外は小雨とも言えないほどの細かい雨が降っていて、最寄りの地下鉄駅までは少し歩く。鞄に忍ばせた折りたたみの傘が、一瞬私を立ち止まらせたが、結局傘をささずに歩くことにした。高まりつつある「期待」とそれに拮抗する「不安」を雨が鎮めてくれるよう願ったからだった。私はこれから、かつて思いを寄せた女性に会いに行くのだ。


  銀座線から千代田線に乗り換え、乃木坂駅で下車。六番出口から長いエスカレーターで地上に出ると、そこはもう国立新美術館のエントランス。あっけないほどあっという間に目的地に着いた。若かりし日々、秘めやかで淡き恋物語。回顧も途中までで、懐古するいとまはさらにない。モディリアーニ展のチケット売り場。横顔のその人が私を迎えた。「ドクン」。胸の鼓動に戸惑いながら、大きく息をして吹き抜けのホールを見上げた。一面ガラス張りの巨大な壁には、どんよりとした都会の梅雨空が張り付いていた。雨脚は少し増したようだった。
 アメデオ・モディリアーニはイタリア・トスカーナ生まれの画家でパリ・モンパルナスで生き、そして死んだ。謎に満ちた美しい若者。その奔放で破天荒な短い生涯は伝説となり、二度ほど映画化された。しかし私はそれを見ていない。脚色されたエピソードと作為的なストーリーに耐えられないだろうと半ば予想し、半ば確信していたからだった。画家を知るには、その作品がすべてであり、その作品に色を加え形を変えるような知識は、たとえそれが真実であっても不要であるとうそぶく私であるが、彼の若き恋人、ジャンヌ・エビュテルヌにまつわる、悲しくも切ない物語は、私の心をとらえて放さない。当時、医学部の学生であった私は、親の庇護のもとでの何不自由のない日々の暮らしに厭いて、デカダンスに憧れ、ユトリロやモディリアーニに傾倒した。そして頽廃と混沌のなかで可憐に咲いた一輪の花、ジャンヌに恋をした。安手の画集は印刷の質も悪く、手のひらに収まるほどの大きさであったが、小さくかじかんだ私の心を包むにはそれで十分であった。
 以前私は「本物」のジャンヌに二度会っている。一度は倉敷の大原美術館で、もう一度は某美術館での某美術展(極めて遺憾ながら失念してしまった)に於いてである。しかし、それは二昔も前のこと。今回は私の最も惹かれている二点、件の画集に隣り合わせで載っていた二人のジャンヌが私を待っているのだ。少し震える手で入場料を払い、チケットを受け取る。いつもの違和感あるいは幸福感に包まれる自分に気づき、ほっとする。私は、お気に入りの画家や作品が展示される美術館に入る時、「こんなに安くていいのだろうか?」と思う違和感(費用対価値のアンバランス)と幸福感(ちょっと得した気分)をいつも感じるのである。「大丈夫、冷静だ」。自分に言い聞かせる。「期待」は自らの理性のコントロール下に置いた。残るのは「不安」だ。作品の中のジャンヌが年をとって変わることはない。変わるとすれば自分自身だ。安寧な暮らしに鈍麻した自らの感性である。


 モディリアーニ展は盛況だった。週末でしかも展示会の会期の終了が迫っていたからだろう。静かな絵画鑑賞というわけにはいかなかった。しかしわたしは、根気よくひとつひとつの作品を吟味し、楽しんだ。ピカソやセザンヌに影響された初期の作品から、彼の芸術の根幹をなすプリミティブ美術・カリアテッドの作品群、彼の肖像画の様式を確立した1915〜1917年の作品群を経て、いよいよ私は最も好きな制作年代1918年の部屋にたどり着いた。お目当ての二枚の内の一点「赤毛の若い娘(ジャンヌ・エビュテルヌ)」と題された作品の前に立った。いや凝然と立ちすくんだ。瑞々しく魅惑的な表情。モディリアーニとしては珍しく瞳が書き込まれ、澄んだ視線が印象的だ。ジャンヌは1918年の11月に娘を出産するのだが、おそらく妊娠初期で妊娠にまだ気づかない頃か、気づいてはいてもまだ母性を自覚しない頃の肖像ではないだろうか。長く豊かな赤毛に、理知的な眉と目、すっと通った鼻筋。引き締まった唇ととがった顎。モディリアーニの肖像画の特徴を有していながらも、それを突き抜け、凛として明瞭である。画集を見る限り、この肖像画は、はたしてジャンヌを描いたものだろうか?といぶかしんでいた。実際のジャンヌの瞳はブルーで、褐色の瞳ではない。しかし原画を目の前にすると、そこで私を見つめているのは、紛れもなく私の恋したジャンヌであった。「期待」はコントロールする必要はなく、「不安」は杞憂であった。画学生であったジャンヌは1917年7月にモディリアーニと出会う。やがてふたりは恋に落ち、ともに暮らすようになる。厭世的であると同時に世俗的で、自堕落でしかし貴族的気品を持った美貌の画家に彼女は自らの若さと情熱をぶつけ、幾たびか裏切られながらもその愛を貫いた。麻薬と酒におぼれ、夜のパリを、惨めな暮らしを彷徨するモディリアーニを彼女は献身的に、それこそ無垢の愛で支え続けた。モディリアーニにとっても、数ある女性遍歴の中で、心の安息が得られた唯一の女性であったと信じたい。


 二枚目の絵は「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ」。おそらくモディリアーニの作品中最も有名なこの作品は、彼の肖像画の特徴が極めて典型的に現れている。頭部から長い首、肩へと続くS字型の流れるようなポーズ。瞳は青に近い灰色で塗りつぶされている。画竜点睛を欠くという言葉は、モディリアーニには当てはまらない。アーモンド型に塗りつぶされた瞳は、画面全体に緊張感を生み、見る人の心に食い込んでくる。どこを見られているか分からない不安に駆られるからではない。等身大の自分を茫漠と眺められることにより、描かれた人物の内面に通底する自分自身の心の襞に、はっと気づくのである。この絵で描かれるジャンヌは顎にふくらみを持ち、体も少し丸みを帯びている。妊娠も後期にさしかかったのであろうか、女性としての可憐さは陰を潜め、母性としての慈愛が醸し出されている。赤褐色の壁と緑の背もたれの対比、黄土色に輝く帽子のつばが、宗教的荘厳さをも感じさせる。ジャンヌにとって最も幸福な、つかの間のひとときを描き止めた傑作であると思う。
 モディリアーニとジャンヌが共に暮らした日々を、ありのままに切り取ったキャンバスには、若く溌剌としたジャンヌと満ち足りて自若としたジャンヌがいた。一炊の夢ではない、ジャンヌの生きた軌跡がそこにはあった。悄然と美術館を出る。若いというだけで許されてしまう我が儘で純真な愛の形。私のかつて懐いた憧憬は、今はこんなにも私を息苦しくさせ、胸を締め付ける。若さという両刃の剣、その鋭利な切っ先を私は憎んだ。雨が頬を打つ。鞄の中の傘が、今度は少しばかり私を立ち止まらせたが、やはり傘をささずに歩き出した。雨はもはや私の心の如何なる場所にもしみ込んでは行かないだろう。しかし私の心はこの雨に濡れることを望んでいるのだった。
 1920年1月24日土曜日の夜、モディリアーニは結核性の髄膜炎で世を去った。翌日曜日、モディリアーニの遺体と対面したジャンヌは、死してなお端正なその面影を胸に刻むようにしばらく見つめた後、一言も発せず後ろ下がりに部屋を出た。妊娠九ヶ月、二人目の子供を宿していたジャンヌは両親に引き取られ実家に帰ったが、翌日の月曜日に五階の窓から身を投げた。モディリアーニと知り合って三年目、二十一歳の若さであった。


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